「社会へ出て45年」
1971年(S46)4月に社会へ出て45年となる。大学へ入学した頃から、後に“大学紛争”といわれた騒がしい時代であった。3年生時のほとんどが大学はロックアウトで、授業もなく、企業での“工場実習”もなく、「このまま社会へ出て機械技術者として勤まるのか・・・。」と思いながらの1970年5月25日に、漸く4年次へ進級した。
4年に進級した直後に日本IBM(株)からコンタクトがあり、“渡りに船”と就職した。サラリーマンとしての19年間は、製造業を中心とした企業の業務革新を支援した。41歳で独立し“ITを活用した業務革新支援”を業とする会社を創業し21年間を過ごした。2008年に医療情報とネットワーク関連の会社の社長を兼務することになり、4年前にその会社と創業した会社とを合併し退任、顧問になった。
起業して数年経った頃に、ある経営者の会で筑波大学の村上和雄先生(当時教授、現名誉教授)にお会いし、当時の先生の研究テーマ“人レニン”の研究についてお聞きする機会があった。レニンは高血圧を司る酵素で、フランスのパスツール研究所と米国のマサチューセッツ工科大学(MIT)と競争し、絶体絶命の状態から、ある出会いを機に逆転し、“世界の村上”になられた経緯を克明に聞かせていただいた。その後世界的な共同研究で“人の遺伝子構造”を100%読むことにチームとして成功された。先生は生命の誕生から約10億年の歴史が克明に描かれた遺伝子構造を“生命の暗号”と称されている。現在もDNAとして描かれている遺伝子構造の90数%はその意味(価値)が分からない状態とのこと。共同研究者のあるメンバー達は「今、分かっていないのは“ジャンクだ”」と言っているとのことだが、村上先生は「今後起こるかもしれない“パンデミック”等に対応するための冗長度だと考えたい」とされている。
約20年間に何度となく先生のお話を聞かせていただいているが、いつもその中身は京都大学の講師時代の60年安保時のご苦労と“人レニン”の研究時に世界の研究仲間から“ドクター35,000頭”とあだ名されたお話から始まって、その時点その時点での研究テーマの進捗状況を、我々にもわかり易くお話しいただいている。つい最近のお話では“眠っている遺伝子のON/OFF”に絡んで、“笑いが免疫に与える影響”を研究されている。笑いが“眠っている遺伝子をONにする”ことを調べようとされて、あの“吉本興業”と共同研究されているとのこと。その実証研究の一端としては、重症の糖尿病の患者さんを集めて、@糖尿病の権威の医者からその対処法の講演を聞いて、血糖値を調べる。翌日に同じメンバーにA吉本興業の“お笑い”を聞いた後、血糖値を調べる。Aではほぼ全員の血糖値が半減以下になったとのこと。最近は“心と遺伝子研究会”を主宰され“祈りと遺伝子”の研究を始められた由。このテーマに関する研究の成果のお話はまだお聞きしていません。
経営の第一線を離れて4年少しになるが“ITを活用した業務革新”というライフワークは変わらず、今も毎週、東京と神戸を往復している。9年前の11月に硬膜下血腫で2度の穿頭手術を受け、3年前の12月にはくも膜下出血、一昨年の7月と昨年の10月には大腸癌の切除手術を受けた。これらの身体上のインシデントも、村上先生の言われる“天から重要なメッセージ”と受け止め、陽気に、そして大いに“笑いながら”与えられた時間をライフワークとしての仕事を楽しみつつ過ごしていきたいと考えている。
【注】 “ドクター35,000頭”:“酵素:人レニン”は入手できないので、まず“牛レニン”を注出して確認するために、東京・品川の食肉センターに通って、「気がふれているのでは…。」と言われながら、説得して牛の脳下垂体を35,000頭分冷凍保存して貰い、それを先生や奥様、研究生が早朝に協力して処理(“冷凍かつ硬い殻”剥き)して、0.5ミリグラムの“酵素:牛レニン”を手に入れられたことが綽名の由縁。
次は、18回生で昭和46年、工学部卒の藤岡 昭さんにバトンを渡します。
以上(2016.04.11) |